母校神戸外大の創立60周年を迎え創立当時を想う
赤松 光雄(学1EB)
副会長の小林信次郎のご指名により、急に檜舞台に引きずり出され、いささか緊張気味だが、今更自己紹介をするのも照れ臭い。 相当数の卒業生が私の曽ての教え子であるし、少数の卒業生は私の昔の学友であるからだ。 学歴5年、教員歴37年、外専・外大の在籍年数42年といえば、恐らくは元学長で現楠ヶ丘会会長の須藤淳氏と最長記録において一二を争う存在ではないか。 しかしこちらは氏と違って出来の悪い総領の何とやらで、毒にもならない、薬にもならなかったという負い目があるので、同窓会の常任理事になって、せめてもの罪滅ぼしをしている次第である。
退職して15年もたつと、教職員の顔ぶれもかなり変わってしまって、たまにキャンパスに顔を見せても、「あなた、どなた様ですか?」 とけげんそうに聞かれる始末で、元教員でございますと、名札をぶら下げて歩き回るわけにもいかず、佗しさもつのる昨今である。 母校が還暦の60才なら、私は傘寿の80才、めでためでたのアカマツ様という祝い唄にも免じて、古い外専の回顧話の一席を、暫らくご静聴願いたい。
今のJRの兵庫駅から眺めると、見渡す限りの焼野原、ぽつんと一つ焼け残った大開小学校の校舎が外専発祥の地点で、当事を偲ぶよすがは今は何も無い。 外大の前身、神戸外事専門学校の英語科に入学、復員軍人でもあった私だが、新しい学生服など 入手できる時代ではなく、軍帽に外専の帽章を誇らしげに付けていて、階級章を外しているという他は、上から下まで軍人姿 だったが、別に好きでこんな格好をしているわけではなかった。 これも当事の典型的な外専生の服装の一つだった。戦後間もない昭和21年、日本全土が米軍の占領の下にあって、与えられた民主主義の何たるかを模索しながら、さあ、これからは自由に思い切り勉強ができるという期待に胸をふくらませて入学したのだ。 しかし現実は厳しく、衣食住すべての面で 不自由などん底の生活を余儀なくされ、国民の大半が飢餓線上をさ迷っていた。
悪化する食糧事情のため、開学は6月にずれ込み、6月1日に開学式を行ない、10日経って漸く授業が始まった。 しかし午前中だけの4時限の短縮授業で、それも文部省の通達により6月一杯で授業は打ち切られ、すぐ暑中休暇になってしまった。
学資や小遣いに不自由を感じていた私は、そうした授業の合い間の休憩時間になると、そっと机の下に隠していた小間物類やメリヤスの品を取り出して机の上に並べると、忽ち左右から引ったくるように手が出て、一瞬のうちに売り切れてしまうのであった。またその頃、私の自宅は山陽電車の東二見の海岸近くにあったので、懇意の漁師から仕入れたベラや、本庄貝とも云う大型のおま貝をバケツに入れ、農家や料理屋にせっせと運んで、割のいい稼ぎをしていた。
これに反して通学は困難を極めた。山陽電車は戦時中の空襲によって甚大な被害を受け、その後遺症で、朝夕のラッシュは正に地獄の觀を呈していた。 本数が少ないので次の電車を待つことも出来ず、必死で満員の閉まらないドアにしがみつき、振り落とされそうになったこともあれば、急斜面を走り下りる車輌が、突然ブレーキが利かなくなって運転手の悲鳴が聞こえ、肝をつぶしたこともあった。 故障で動かなくなるとレールの上を歩かされるが、それも日常茶飯事となっていた。 こうして学校に着くと、午前の授業は殆んど終わっていることも再三あった。そんな時は隣りの魚住駅から通う親友の原田達郎氏と山陽電車通学の悲運をかこち合ったものだ。 二人して途中で授業にもぐりこむのも何となしに気がひけるので、よく運動場でのソフトボールという誘惑に負けてしまった。
秋になって授業が始まったが、それから半年もたたないうちに大変なニュースが伝わって来た。 いわゆる六三三制の学制改革への移行、外専は大学に昇格するか、さもなくば廃校の憂き目を見るという厳しい岐路に立たされることになった。 母校を襲った初めての、そして最大の危機であった。 全学生といっても二百人前後の一年生ばかりだが、連日の大学昇格運動に力を結集したのである。四十七士がそばを食べて出陣したように、運動場で炊き出しの芋粥で腹ごしらえを整え、4・5人ずつの小グループに分かれ、目抜き通りの街頭や映画館、市・県庁に占領軍軍政部などへと出かけて行った。この活発な署名運動、陳情運動が奏功して外専は二年後に大学に 昇格されることになった。学生も教員もホッと胸を撫でおろした。このあたり詳しくは神戸外大の「50年史」をご覧頂たい。このホームページの外大の<歴史>をクリックすれば、が街頭で「国際港都における外大の必要性」を訴える学生たちの雄姿が ご覧頂ける筈である。 駄弁を弄しているうちに、早や与えられたスペースが尽きてしまった。 次の小野柄假校舎時代の思い出は 更なる機会に譲ことにして、待ちくたびれている次の走者にバトンを渡すことにしよう。