茫々夢の如し―外大入学した頃の思い出
原田 松三郎
私は1954年4月に神戸外大中国学科に入学しました。 04年4月に新1回生を前にして私も50年前には諸君の坐っている側で中国語を始めたのですと話しかけました。 彼らが私のこの言葉をいかように受け取ったか知る由もありませんが、この50年はまさしく我が人生そのものです。
あの昼なお暗い六甲学舎の取っ掛かりの101教室が私たち1回生の教室でした。 第1時間目の授業を受けるべく教室に入ると、すでに教室の壁に30名の新入生の名前が黒々と墨書きされていて、しかも変な記号でルビが打たれていました。 そのルビこそ今日でも台湾で使用されている注音符号でした。まずこの奇妙な記号の書き方と発音を覚えることから勉強が始まりました。 私たち1回生の担当の先生は坂本一郎、大芝孝、楊秩華の三先生でした。とくに坂本先生は1回生の授業に情熱を傾けておられました。 専攻語学の有る月、水、金は定時より30分早く授業を始めるので、8時半には登校するように指示されました。この早朝授業はほぼ一年中続けられました。 そして先生の在任中ずっと続けられました。 この30分の間は主として教科書を何度も声を出して読むことと応用会話に費やされました。 因みにこの時に使用された教科書は坂本先生ご自身が編集された「中国語入門」(昭和29年4月発行)というガリ版印刷の教科書でした。 大芝先生は「倉石中国語教本」の巻一でしたし、楊先生は秩父、杉先生編集の「中国語会話」を使われました。 いずれも「中国語」と冠していますが、坂本先生の教科書以外は戦前に出版された教科書の「支那語」という表題を「中国語」に変更したに過ぎませんでした。 会話には骨董品を値切って買う場面があったりしました。
当時の大学生はまだ多少インテリゲンチア(この語彙は今や「死語」に成っている)だと意識していたのか、男子の1回生はほとんど制服制帽で、襟章まで付けていました。 英語科は「E」を、ロシア学科は「P」を、そして私たち中国語学科は「C」を付けていました。 世間では今どき中国語など勉強している若者が存在しているなど思いもよらなかったのか、私の襟章を見て、何人かの人が化学の専攻ですかと尋ねました。 日本の敗戦からまだ10年も過ぎていないのに、戦争中は大変な中国語ブームであった事を世間はすっかり忘れてしまっていたのです。 旧制中等学校、商業学校で中国語を教え、外事専門学校(後の外国語大学)では中国語、蒙古語、マレー語、タイ語などアジア系の専門学科に志望者が集中していたそうです。 そうゆう社会の状況に影響されたわけか、小学校に上がる前から子供同士で簡単な中国語をしゃべり合っていました。 勿論数詞の1から10までは知っていました。これは私が住んでいた神戸という土地の影響が強かったかも知れません。
敗戦の翌年、すなわち1946年に我が神戸外大の前身である神戸市立外事専門学校が当時の貿易立国の思想を体現できるような外国語学校を目指して誕生しました。 後に大学に昇格しても依然として創立当初の理念のもとに、学科はイスパニア学科、国際関係学科が増設されたものの、外国語は依然として英語偏重で学部は1学年3クラス、二部にいたっては1学年4クラスがすべて英語専攻です。 大学創立60周年を迎えてもなおかつこのままで良いのか甚だ疑問です。 私は密かにこれは大学がいわゆる「戦後処理」を怠っている結果ではないかと愚考しています。
もう少し入学当時の状況を述べてみます。 あの頃の日本人の大半が明日のパンを求める事に精一杯で、世界情勢まで思いを致す余裕はありませんでした。 中国についても1949年10月1日に中華人民共和国が誕生した事は知っていても、その具体的状況がどうあるのか殆ど理解できませんでした。 今日のようにマスコミが毎日のように中国についての報道を伝えることはありませんでした。興安丸による中国からの引き上げ事業がなお続いていました。 日本からの船には周恩来副総理の呼びかけで戦前からの中国人留学生が「愛国青年」として多数帰国しました。当時の私にとって中国は「近くて遠い国」でした。 大学の帰りに友人と南京町に行って豚まんを食べ、遥か中国に思いを致すのみでした。当時の南京町には現在のような賑わいはなく、裏寂れた横丁という感じでした。
時代はぐっと下がりますが、外大を卒業して10年後のある日、母校から外大に助手として戻って来ないかとの有難いお誘いを受け、喜んでお受けしました。 しかも恩師の坂本先生の後任という事で、大変光栄に感じ、またプレッシャーを強く受けました。母校の教壇に立ってみると大学の状況も学生の気質も一変していました。 大芝先生のご指示で私も早朝授業を開きました。 私が8時半前に登校しても校舎自体が閉まったままであり、やむをえず研究棟で始めると早く登校されている同僚からうるさいとの抗議を受けました。 そのうちに或る学生から早朝の授業は「平等」を欠くという事から止めて欲しいとの申し入れがありました。私の時代とは大学を巡る状況がすっかり違っているのだと悟りました。 なお、この中止の申し入れをした学生は結局何年か在籍の後に退学してしまいました。
現在もなお孫のような年齢の学生に中国語を教えていますが、今日ほど中国語を勉強する環境に恵まれている時代はない、必ずやモチベーションを高めて中国語をマスターするようにと声を大にして呼びかけています。