リレーエッセー 第5弾

普通の人々

細川満里子(旧姓松村)学20EC

北京駐在となった主人について1985年から3年間二人の子どもとともにこの地に暮らし始めたとき、北京は外資系企業が進出し始めた頃で、街には人民服姿の人や馬車の往来が目立っておりました。 その後、1999年から再び主人と共にこの地で暮らすことになりました。 子育ても終わり、今回はもう少し中国の人々とも触れ合ってみたいと思い、外大卒業後30年あまりを経て、こちらの「対外経済貿易大学」のキャンパスで新たに中国語の勉強にチャレンジしました。 英米学科の私も日本人として日ごろ使っている漢字には西洋人のように抵抗はなく、大学で学んでいくうちに中国語にも興味を覚えました。 我々日本人が日ごろ何気なく使っている四字熟語なども元はといえば大部分中国語から来ているもので、其の来歴などを知ったりするとますます興味がわき、今も中国語の翻訳の勉強を続けています。

最初に北京に来てから20数年経ち、その間の中国の発展と変貌は著しく、ここ北京では、2008年のオリンピックに向けて、街中が建設ラッシュで、道路を立体交差にしたり、緑地帯を増やしたり、空港から市の中心に向かう地下鉄も建設中です。 まさに街を挙げてオリンピックに邁進している様子です。またハードの面だけでなく、市民のマナー向上、そして外国からの観戦者を受け入れるための準備として、外国語を広く市民にも学んでもらうべく、各地区の住民、そしてタクシー運転手に外国語の学習を呼びかけております。 (はっきりいって北京の運転手はほとんど中国語しかしゃべれない・・)。 そうした環境の中で、庶民の中で外国語に対する興味は深まってきているようです。

私の中国でのボランテイアへの関わりは、中国語に多少不自由を感じなくなった2001年頃に遡ります。 市内の学校で日本語を教えてもらえませんかと知り合いの方に頼まれ、日本で多少日本語を教えていたこともあり、不安を抱きながらも引き受けることにしました。 私が教えることになった学校は、日本で言えば専門学校のような職業高校で、一般の大学に行くには多少学力が不足していた学生たちが専門知識や技術を身に付けるべく通う学校でした。 園芸課、旅行課などがあり、私は旅行課の学生たちに日本語を教えることになりました。 そこで学生達は日本語を学び、上手くいけば旅行会社などで働くことが出来るようでした。 もちろん頑張れば大学への道も開かれているようで、小柄な私が見上げるような男の子たち、そしておしゃれ心も出てきた女の子たち、みな青春真っ盛りという様子で学んでおりました。 日本の荒れた学校の様子を思い起こして果たして学生たちは私の言うことをちゃんと聞いてくれるのか? 一人っ子として甘やかされた彼らはわがまま放題ではないだろうか? 色んな不安いっぱいで第一日目、教室に入ったとたん、学生たちはクラス委員の号令でいっせいに立ち上がり、私を迎えてくれました。 そして突然私にプレゼントをくれたのです!それはお茶を飲むためのマグカップでした。後でわかったのですが、その日は「教師節」といわれる日で、日ごろお世話になっている先生に感謝をするという日だったのです。

思わぬプレゼントに戸惑いながら自己紹介し、第一日目の授業は始まりました。 学生たちは一応私の話もおとなしく聞いてくれ、中には日本語が多少わかる学生もおり、私は日本語と中国語を使いながら授業を進めました。 決してエリートではない彼らの中には熱心ではない学生もおりましたが、まだ日本のように授業をサボる者などは居らず、中には授業が終わるたびに日本語で話しかけてくる熱心な学生もおりました。 クラス委員の女学生は私が名前を覚えるためにカードに名前を記入してくれたり、色々と私を助けてくれました。 女の子たちは皆素直でかわいく、授業が終わるたびに教壇のところに来て日本の歌手や音楽のことなど興味深そうに聞いてきました。 唯一つ戸惑ったのはテストのときでした。こちらでは助け合いの精神がとても旺盛で?!カンニングは当たり前、されたほうもぜんぜん気にしていない様子。 もともと罪の意識がないようです。答案用紙を集める時、それを見ながら解答を書いたり、また普段の授業でも私の質問に答えられない人がいると周りの人がすぐに本人に教えるのです。 注意しても何で?!という感じ…。 成績をつける時は苦労しました。 でもうれしいこともありました。 テスト用紙の余白に簡単な日本語で「かぐや姫」の話を紹介したところ、一人の女学生が休み時間、私のところに来てこの話はとても美しいと言いました。 彼女はとてもおとなしい学生で授業の時に指名してももじもじしているだけでなかなかはっきりと答えられない学生でした。 私は彼女に「かぐや姫」の話を詳しくしてあげました。それからは授業でわからないところがあると私に聞きにくるようになりました。 私の授業で彼女が日本語に興味を持つきっかけになったかと思うとうれしく思いました。 また年末にはクラスの学生たちが自ら準備してパーティ(?)をしました。 教室を飾り付け、お菓子、飲み物を持ち寄ってカラオケなどをやりました。 私もみんなといっしょになって歌ったり写真を撮ったりしました。 ここにいるのは別に中国の未来を背負ってたつエリートでもないけれど、日本の若者と変わらないごく普通の中国の若者達です。 訳あって、そのパーティの日がそこの学生たちとの最後の日になってしまいました。

その後2003年になって、日本の協力で建てられた「中日環境センター」で職員にボランティアで日本語を教える機会がありました。 そこでも地方から出てきて環境センターで働き週一回の日本語のクラスを楽しみに来てくれる女の子たちもいました。 中学を卒業して北京に来て、掃除などしながら働いているこの子達も決してエリートではありません。 でも彼女たちに教えた「おじいさんの古時計」をいっしょに歌っていると大都会に出てきて小さな幸せを夢見ながら働いているこの普通の人たち一人ひとりが未来の中国を築いていくんだなあと感じました。 日本語教室の生徒の中にはアメリカで環境について学び、汚染が深刻な中国のこれからの環境保護にかかわっていくであろう若い研究者もおりました。 彼との雑談の中で、「中国のごみリサイクルは無駄がないのですよ。 中国では究極的に『ごみ』というものはないのです。 一見もう捨てるしかないごみもまたそれを拾って役立てる人が必ずいるのです。 結局『ごみ』は残らないのです。」と私に話してくれました。

北京でも3Kといわれる仕事をするのは外地から出てきた人たちです。 そういう普通の人たちが北京人の出すごみを最後まで役立ててくれるのです。 この人たち抜きで中国の現在も未来も成立しないと感じました。

これらの人たちの未来が少しでも明るいことを祈りつつ…。

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2024年6月5日

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