松下幸之助翁の教え
上海支部 中島 誠一(学14C)
私の第1回目の訪中が1966年8月で丁度文化大革命が始まってすぐの喧騒で酷暑の時でした。 それから数えて本年で40周年が過ぎました。振り返ってみますとあっという間に過ぎ去ってしまった感がります。 この間、多くの日中両国の人々との出会いがあり、学校卒業して間もなくで何も知らない私を鍛えてくれました。 正に日中貿易は私の人生道場でした。
その中でも強烈に脳裏に焼きついている人といえば松下幸之助翁です。
1980年10月6日大阪(伊丹)空港国際線ロビーの貴賓室は出発する人、見送りの人更に報道関係者でごった返していました。 その中に中日友好協会 廖承志会長の招聘を受けて訪中する松下幸之助相談役はじめ12名の一行がおりました。 私は縁あって松下電器に転職したばかりの時で、第12番目の随員としての参加でした。 間もなく搭乗時間になろうかというとき、会社の秘書室の女性社員が慌てた様子で駆けてきて、『あのー、間もなく出発の時間なのですが、中国の大阪総領事館の総領事の陸キ(※王ヘンに其)さんと仰られる方がお見送りにお越しです。』と陸キ(※王ヘンに其)総領事の名刺を私に差し出しました。 地位の高い方ですので直ぐに、樋野正二副社長に取り次ぎ、ご相談した所、相談役に耳打ちされ、部屋でお会いしようと言う事になりました。 私は通訳を命ぜられ、相談役の間近でその言動を目の当たりにする貴重な機会を得たのでした。
松下幸之助相談役は新聞、雑誌、テレビではよく拝見しておりますが、ご本人を間近でお会いするのは初めてです。 先入観からか、或は世紀に1人か2人しか傑出しない偉人と言われる所以からか、大きな磁石に吸い付けられるように傍に座らせていただきました。 お身体、全体はそんなに大きくないのに、顔の造作の大きな方特に大きな福耳をお持ちだと言うのが第一印象でした。
陸キ(※王ヘンに其)総領事は通訳も連れずに慌しく来られてほんのお見送りの挨拶といった感じです。 先ず、陸キ(※王ヘンに其)総領事が 『松下老先生がご高齢をおしての訪中に感謝いたしますと同時に、今回の訪中が成功いたしますことをお祈りします。 ただ、中国は四人組が打倒された直後で、文革の後遺症が処々に残り、必ずしも、松下老先生のご期待に添えぬ所もあるかもしれませんが、ご容赦の程をお願いします。』 陸キ(※王ヘンに其)総領事のお話にジッと耳を傾けておられた松下相談役は暫し、沈黙され何かを考えのご様子でした。 一方、日本航空の係官の方もボツボツ搭乗時間ですと時計を指しながら、窓越しに合図を送ってくれてます。 かなりの時間が過ぎたと感じられましたが、松下相談役は徐に話しはじめました。『総領事ハンのわざわざのお見送りありがとうございます。 先頃、国が乱れ大変な様ですが、確かに今は大変かもしれませんが、物事には節目があります。中国は今、この節目を乗り越えれば、将来は必ず大きく発展します。 日本はこれを2回経験しました。 1つは、明治維新であり、2つ目は今回の敗戦でした。 いずれの時も、物事に対する価値観が今まで教えられたのと180度異なり、当初は戸惑いますが、世の中が落ち着くと、却って皆の力を結集出来て、国として大きな力を発揮できます。 今の経済発展した日本がそれです。』 松下相談役から、一句一句噛んで含めるように、言われると、金言名句となり、人の心に感動を与えます。 通訳をしている私本人も感激しましたし、陸キ(※王ヘンに其)総領事も目元を潤ませておられました。 たった20分足らずの、通訳をさせていただきましたが、大変良い勉強になりました。 普通の人でしたら、外交辞令の遣り取りで、済まされたでしょう。 松下相談役は相手の意見をよく聞き、ご自分でそれをよく咀嚼され、意見を述べられる。 総領事にとっては、儀礼的な言葉より、より深く心に残ったのではと思います。 相手に対し懸命に誠を尽くす。松下相談役から無言の教授を戴きました。
そして、82歳という高齢をおして主治医を伴ってのこのたびの訪中は律儀そのものでした。 1979年第1回目の訪中で「日中電子産業連合構想」を提唱したが、日本側電機メーカーの足並みが揃わず破産した訳です。 日中双方の関係者よりは、松下幸之助相談役の尽力は良くわかっているので、手紙で経緯説明していただければ結構とのアドバイスも戴いていたのですが、「これはわしと{ケ小平ハンとの約束や。 なんとしてでもお会いし説明せんと」との強い気持ちからの2年連続の訪問になった訳です。 結局は{ケ小平副総理よりは「松下老先生のご努力を多謝します。 連合構想はなくなっても、松下一社でも大きな企業グループだから、日中友好のために尽くしてほしい。」との言葉をいただき、無事訪中を終えました。
この訪中以降、松下電器は80年代は130余件のプラント・技術援助、90年代以降は60余の合弁・独資会社の設立にグループを挙げて取り組むことになります。 私もその先兵となり20数年を走り抜けたことになります。 今から振り返ると愉しいことは余り無く、苦しかったことのみ記憶に残っています。 我ながらよくもこんなにやれたなーと感慨ひとしおですがこれも創業者の強い意志が中国事業に携わった人を突き動かしたのでしょう。 中国の故事曰く
【有志者、事竟成】を身を以て体験させて戴き、私の大切な財産となっています。