語劇祭 思い出アラカルト
林 久雄(学7C)
語劇祭は神戸市外大12月の風物詩であろう。
10年程前に、語劇祭の入場券を頂き、数10年振りで観劇の機会があった。 中国学科の演目は曹禺(1910〜1996)作の革命前中国封建的社会に生きる女性を描いた戯曲三部作の一つ「雷雨」で、出演者は好演、字幕も私が聞き取れる中国語の台詞の範囲で、なかなか上手い訳だったが、採り上げられた脚本については、語劇を通じて専攻語学の国の現状、社会風俗、国民性等を学ぶ機会にするとの主旨からすると、中国革命後、文化大革命、天安門事件、改革開放と貧富格差の拡大、と続く激変の中での中国社会を描いた何か別の戯曲もあろうかと思い、正直、「いまだに、何故に中国革命前の作品なのか」といった感想が残った。
そして、1956年に自分自身が関わった老舎(1899〜1966)作の戯曲・北京下町のどぶ川を前にした長屋の庶民の革命前、革命後の生活を描いた"龍鬚溝"(邦訳「北京のどぶ」)の上演にこぎ着けるまでのトラブルのアレコレを思い出した。
脚本選定会では革命後のものに決定したが
例年3回生が中心になっていたことから、その年の夏の終わりに中国学科3回生の有志が阪急六甲の山側の松林にあった喫茶店"六甲ガーデン"に集まって、脚本の選定をおこなった。
候補に魯迅の「阿Q正伝」など2〜3の戯曲が上がったが、新しい中国の作品であり、これまで語劇祭で上演されてないことが決め手になって、「龍鬚溝」を上演することになった。 1956年当時といえば、中国革命から10年、中国人民解放軍が参戦した朝鮮戦争の休戦協定成立からは、わずか3年の時期で世間一般ではソ連型専制国家のイメージを重ね、新中国を"中共"と呼ぶ人も多い一方、かっての半植民地状態を一新、建国が進むニュースに、新中国との通商関係を発展させるべきとの潮流も増大していた時期だった。 今振り返ると、そのような潮流の中で、今までの先輩が革命後の脚本を取り上げなかった理由を深く考えず、安易に"龍鬚溝"を上演することに決定した。 その脚本選定のあと、演出、舞台監督、字幕、照明、衣装、その他のスタッフと、出演者の話になり、演出に私が推された。例年の語劇祭は中国研究会と中国語研究会が中心であったように思われるのに対し、その年の参加者の所属サークルは上記2つのサークルのほか、演劇部、美術部、新聞会など多様だった。 |
合議の結果、演出(私・新聞会)、舞台監督(美術部)は、例年と異なるコンビになったが、その他は、字幕は中国語研究会、大・小道具、衣装等々など中国研究会の諸氏が担当と、結果として例年同様の分担となった。 配役等もその時に大筋を合議したのではないかとの、おぼろげな記憶がある。
演出担当となったものの、私はこれまで演劇は観るだけで、経験は皆無。 どうせプロデユーサー的役割で、舞台のことは演劇部員もいることだからと考え、脚本選定でも"龍鬚溝"を推していた演劇部の同級生を当てにしていたところ、彼からは「演劇部の劇に参加するので・・・(中国学科には関われない)」とのこと。 彼は初めから演劇部でやるつもりだったのであろうが、スタートから蹉跌が生じたと感じた。
幸いにも、その数日後、前年、田漢(1898〜1968年)作「梅雨」を演出された4回生の和田氏と偶然顔を合わせる機会があり、彼の"和"と"日程計画"を重視した経験を聞き、大きな援けとなった。私はその経験に基づきスタッフ各担当に作業完成期限を示したうえ、作業結果は夫々の創意に委ねた。 また各配役の演技については和田氏の紹介で、プロの俳優に一度指導頂いた。
発音指導を引き受けて貰えるのか
―中国人教師は台湾系―
夏休みが終わり、前期試験までの間、語劇の準備も小休止の時期、中国研究会のメンバーから、前々年の語劇祭で演出をつとめた中国研究会の前会長・藤村氏が、「今年の上演は絶対失敗する」と語っていたと聞いた。
伝聞を耳にした時は、反発だけが頭に残ったが、冷静になって考えると、問題は2つある。 一つは外人教師の楊秩華先生は政治的には台湾系で、新しい中国を歓迎する演劇を支持するはずがない。 彼女は中国革命以前に日本に留学、帰国出来なくなり、神戸に在住。 聞くところによると夫君は台湾政府と関係あるやとのこと。 「果たして、例年同様に発音指導をお願い出来るのか」と言う事に考えが至った。 もう一つは、中国学科の中と、大学内も含めて世間一般の新中国に対する認識には温度差と言う表現以上のものがあり、「何か障害が出ることはないだろうか」という不安も意識するようになった。
どうするか? 上演プログラムの発音指導の欄に"楊秩華教授"の名前が無ければそれなりに波紋は拡がる。 しかし、楊先生へのお願いは簡単にいくとは考えられない。 中国人は面子を重んじる。 ましてや、相手はプライド高い大学の外人教師である。
色々と考えた末、一つの結論をもって、当時主任教授格だった坂本教授が住居されていた外大校内の官舎を訪ね、本年の中国学科の語劇祭参加作品に中国革命後の戯曲・老舎の"龍鬚溝"を採り上げることに、クラス討議で決定したことを報告し、あわせ、発音指導について、「楊先生にお願いしますが、楊先生が立場上、引き受けられない、となった際は、坂本先生にお願い出来るでしょうか」と伺いをたてた。 坂本教授は新しい中国の作品に取り組むことに賛意を示され、「先ず、楊先生にお願いしなさい。もしダメな場合は・・・」と有難いバックアップを頂いた。
「政治と学問は別ですので」
それから数日後、演出担当の私と舞台監督担当の二人は、暑いさかりの2時頃、山本通の楊先生宅を訪問すべく北野坂を上って行った。 舞台監督担当の「どういう風に言うつもりや」との問いかけに、私は「……」。 私はまだ「面子を立て、プライドを尊重し、かつ承諾頂ける」言葉を見出していなかった。 「なるようになる」と腹をくくり、北野坂から山本通へ左に曲がった。
未だ40歳前ではなかっただろうか、中国美人の楊先生に、「我々は新しい中国のことも学びたい。先生のお立場はわかりますが、政治と学問は別ですので是非発音指導をお願い致します。」と述べ、楊先生の承諾を得た。
後日譚
本格的な稽古に入ってからも、色々なことがあった 。問題の第一は、実際の舞台の経験者は昨年も出演した女子の3人のみ。 毎日稽古をしているが、舞台でやると、どういう風に観客の眼に映るのかわからない。 照明担当者も未経験で色彩効果の予測が難しい。 悩んだ末、公演第一回目はどの学科も嫌がる初日一番を取り、割り切って、"舞台稽古"のつもりでやり、欠点を修正した。
"龍鬚溝"の第二回目の公演は会場に響く拍手のなかでフィナーレを迎えた。 先生、先輩の支援、参加者全員の協力で、漕ぎ着けた成功だった。
忘れられない話がある。 翌日は第一回公演という日の立ち稽古に重要配役が連絡なく欠席。 電話のある家が少ない時代。その夜、奈良の自宅まで急行したら、風邪で寝込んでいた。 明日は大丈夫と聞いてホッとした。神戸への帰宅は終電だった。 彼は本番で暴力団員に立ち向かう老人を熱演し拍手を浴びた。
語劇際の直後の授業で、楊先生からも「舞台装置が素晴らしかった」とのコメントを頂いた。 今にして思えば、精一杯のコメントであったと思う。
補遺
"龍鬚溝"で新中国に北京の長屋の庶民の幸せを期待した老舎は、文化大革命の混乱の最中、中国の未来を悲観し、1966年に自殺した。(完)