四川を超えて、不良ボランティアを集める
尾澤 良平(学57K)
あれから19年。 僕のボランティアの原点。 神戸の街中は祈りと共感で包まれる。 ろうそくの灯が、おぼろげな思い出をゆらゆらと映し出す。 会場スタッフの募金活動の声がいつまでも寒空に響く。 この場を訪れる人々はお互いを知るわけではない。 言葉を交わすわけでもない。大きな毛布で会場全体を抱きかかえられているような温かさ。 僕がここに行く理由は抱かれたいから。 でも、本当の理由はまだよくわかっていない。
外大は1・17との出会いの場であった。 大阪生まれの僕は、外大で出会う友人や先生から、目からウロコの話をたくさん聞いた。 もちろんそのほとんどは悲しい話。 一方でうれしい話もあった。 被災地で「何かできないか?」という思いでたくさんの人がボランティア活動をしたこと。 その多くが特別な技術や経歴を持った人ではなかったこと。 これは純粋にうれしかった。 困っている人が知らない人でも、どこからか給料が出なくても、誰かに言われなくても、当時のみんなは一歩踏み出したわけだ。 これはすごい。 でも、現実はそこにいた人しかわからない。
学生生活の半ば、僕は当時のボランティアの様子を伝えるイベントをしたり、復興住宅でのお茶会ボランティアに参加したりするようになっていた。 懸命に活動はしていた。 半歩は動かしていたと思う。 災害とはまったく無縁の入学式だったが、少しは成長できた卒業式を迎えた。 でも、何かが足りない。
一月後に、僕は中国四川にいた。四川大地震の被災地だ。 足りなかったのは現場感覚だったのかもしれない。 気づいたら飛行機に乗っていた。 そこですばらしい出会いがあった。 成都市内のホテルのロビーに、1・17のボランティア精神を持ち続けているNGOスタッフがいた。 「NPO法人CODE海外災害援助市民センター」現事務局長の吉椿雅道さんだった。 「できることがあれば手伝わせてください」と、不安ながら話しかけた。 「じゃあついてくる?」「お願いします!」とにかくがむしゃらに動いた。 でも、何もできなかった。
大阪に戻った僕はすぐにこのNGOのドアを叩いた。 四川大地震の募金をやらせてくださいとお願いした。 返答は、どうぞ、の一言。 でも、募金活動をどうすればいいかわからず、事務所の便所掃除から始めた。
それ以降、たくさんの現場に行った。 できることをしようと意気込んだ。 そして、できることはしてきたつもりだった。 地震、洪水、噴火、干ばつ、紛争。 被災地もそれぞれ、被災者もそれぞれ、ボランティアもそれぞれ。 自然や人、社会と正面からぶつかって、自分を見失いそうになった。 でも、精一杯やることで自分を納得させていた。
しかし、3・11。 地震、津波、放射能。 すぐに山形の米沢にかけつけたが、完全に自分を見失った。 福島からどんどん流れ込んでくる避難者。 わけもわからず、神がかり的に逃げて来た人たちだった。 「避難所の状況はきっとよくなっていきます。いろんなボランティアが来てくれるはずです。」 避難所で僕ができることは、語りかけることしかなかった。 ほとんどの人は涙していた。 でも、放射能が怖くなって、数日後、僕は神戸に避難した。
それから、僕は「不良ボランティアを集める会」を立ち上げた。 あの時の約束を守りたいと思った。 自分で考えてやってもらう、自分のできる範囲でやってもらう。 そんなボランティアを神戸で集めて、東北に送る活動を始めた。 まごころ便という名のバスを39便出した。 自分は参加者の募集だけをして、運転に専念。 ボランティアの内容は、完全に参加者各個人の想いに委ねた。 本当に多くの支援をいただき、何とか続けてこられた。 でも、自分は運転ハンドルを握る以外何もしていない。
1・17を僕は知らない。 1・17が僕の希望。 この相反するベクトルは、常に僕を悩ませる。 ボランティアも災害も、ずっと関わってきているけど、悩みはつきない。 何してるんだろうって。 僕のしていることは、被災地被災者にとって良いことなのかなって。 そこから悩みは膨らんで、これで世界が平和にでもなるのかなって。
とりあえずの今の答えはこう。 自然とは畏れ敬うもの。 人とは間違え悩み続けるもの。 このことをしっかりと前提にすれば、いろんなボランティアが増えるはず。 「何もできないかもしれないから、何でもできる」と信じる。 でも、笑いながら悩んで生き抜きたい。 四川で見た女性の遺体は常に僕に問い続けている。