元代の市民生活―『朴通事』から
佐藤 晴彦(修2C)
私は、神戸外大中国学科で、太田辰夫先生に師事した関係もあり、中国語の歴史的変遷に大変興味を惹かれ、大学院修士課程に入学以来、ずっと中国語の歴史な変化を追い求めてきた。
中国語の歴史的変遷を見る場合、いろいろな資料があるが、その中にふつう「朝鮮資料」と呼ばれている資料がある。 要は朝鮮人が中国語を勉強する時に使った教科書である。 その代表が『老乞大』(「中国通」の意)と『朴通事』(「朴の通訳」という意)だ。 ともに成立したのは元代だが、その原本は失われ、これまで明代に改訂が行われた『老乞大諺解』(1670年)、『朴通事諺解』(1677年。 「諺解」とは、「諺文」つまりハングルで解釈を付けたものという意)という本が使われてきた。
ところが、1998年に韓国の大邱で、なんと、元代に出版されたと思われる『老乞大』が発見された。 あくる1999年に、韓国の鄭光という先生が大阪市大に来られ、その新発見の『老乞大』を紹介された。 20世紀も終わりに近づいた時期に、元代の資料が発見されたということで、私など、非常に興奮したのを覚えている。
そこで、早速、金文京、玄幸子という二人の友人とともに、訳注作業に取り掛かり、2002年、『老乞大―朝鮮中世の中国語会話読本』(平凡社東洋文庫699)として上梓した。 この本を上梓した後、「さあ、次は『朴通事』だ。」というわけで、京都大学人文科学研究所の金文京教授を中心に朴通事研究会が発足し輪読会を始めた。 研究会は順調に滑り出したが、2005年4月に金教授が研究所の所長となり、その業務に時間をとられたため、2009年3月に所長職が解かれるまで研究会は活動が止まり、開店休業状態だった。 研究会の活動が再開されたのは、2010年頃だったと思う。 それから4年経ち、ようやく来年の三月には、全106話を読み終える見通しができた。 中断した4年間を計算から除外しても、足掛け10年になろうとしている。 10年も掛けて読んできた本の何が面白いのか、その一端を紹介してみたい。
なお、こうした朝鮮資料に見られる中国語は、"漢兒言語"と称されている。 "漢兒"とは、異民族支配化の中国人のことを指し、支配する異民族の言語の影響を受け、中国語としてはどこかブロークンな響きをもつ、一種独特な言語になっている。 専攻生でも低学年であれば、どうしても母語の干渉を受けた中国語になりがちだが、そういう中国語を想像してもらえればよい。
『老乞大』が、高麗の商人たちの旅行記録だとすれば、『朴通事』(以下、『朴』と略称)は、謂わば「分類会話」、「場面会話」といった性格をもつ。 全部で106の話があるが、原本は段落を区切るだけで、それぞれの話にタイトルがついているわけではないので、内容に相応しいタイトルをこちらで勝手につけている。 以下、いくつかのお話しを紹介しよう。
甲)「服を縫う」の「縫」はどう書く?
乙)糸偏に「逢」という字だよ。「逢」は「久」の下に「手」を書いて「之繞(しんにょう)」を付けるのさ。
甲)「交代」の「代」はどう書く?
乙)人偏に「弋」を書けばいい。
面白いと思ったのは、甲)「劉」という字はどう書く?という質問に対する乙)の返答だ。乙)の返答は、「文」に「刀」を書けばいい。
となっている。 「刀」は「刂」のことだろうから、このまま書けば、「劉」ではなく「刘」となり、現在の簡体字と同じになるが、元代でも、「劉」より、「刘」という文字の方が、一般的に書かれていたものと想像できる。甲)姉さん、俺、あんたに惚れて、飯もろくに喉を通らねえ。
乙)フン、何言ってんの!主人に知れたら、大変よ。二度とそんなバカなこと言わないでちょうだい。
「『西遊記』はわくわくするから、くさくさしている時に読めば面白いんだ。唐三蔵が孫行者を引き連れ車遅国へ行き、伯眼大仙と術を戦わせるという場面、あんた知っているかい?」
と発言した後、『西遊記』の原文が引用される。 この原文は元代の『西遊記』を記録した貴重な資料であるため、太田辰夫先生は早くからこの件に注目され、「『朴通事諺解』所引西遊記考」という論文を執筆、『神戸外大論叢』10巻2号(1959年)に発表された。 後に太田先生が『西遊記の研究』(研文出版、1984年)としてまとめられた著作の中でも、初期の論文に属す記念碑的な論文である。要するに『朴』は、当時の市民の生活を、いろいろな話題に分けて描いているのである。 このように市民生活の細々としたところまでを描いた資料は、『朴』以外、恐らくない。 しかもそれを会話の教科書にしたというのも、その時期としては世界的に見ても珍しいことで、貴重な記録というべきである。 ただ、今日私たちが想像する教科書とは相当性格が異なる。 先に挙げた「人妻に言い寄る男」(第49話)とか、「小僧買い入れの証文」(第44話)など、教科書のタイトルとしてはおよそ相応しくない。 しかしながら、あらゆる場面を想定し、そういう事柄に関する関連表現を、「これでもか!」と言わんばかりに駆使してくる姿勢は、編集者の意気込みが感じられるところである。 そういうあたりが私たちを惹きつけてやまない魅力だと思われる。
とは言え、朝鮮資料はあくまで「外国資料」であり、先にもふれた通り、「漢兒言語」の資料であり、どこかブロークンな響きがあり、しかも語彙として、中国本土では使わないだろうと思えるような語も少なからずある。 さらに元代に編集され明代に改訂されているので、歴史的にも重層性があるため、より一層理解を妨げている。 そんな厄介な資料でもあるので、一筋縄ではいかないシロモノである。 そういうところが難解且つ面白い。
ご参考のため、106話のタイトルを下に挙げておきましょう。
第1話 花見の宴 | 第36話 西湖遊覧 | 第71話 大雨後の宿場 |
第2話 詔書の読み上げ | 第37話 親友の情 | 第72話 お役人のマラソン大会 |
第3話 水害の復旧 | 第38話 反物を買う | 第73話 裁縫の日取り |
第4話 俸禄の受給 | 第39話 永寧寺参詣 | 第74話 蒸し暑い日 |
第5話 お出来の治療 | 第40話 雑技見物 | 第75話 猫売りとけんか |
第6話 緞子の値段 | 第41話 失敗した物入れ | 第76話 菖蒲の葉の効用 |
第7話 ナイフを作る | 第42話 染物屋での商談 | 第77話 訴訟には賄賂を |
第8話 子供の遊び | 第43話 使臣の到着と出発 | 第78話 毛皮の手入れ |
第9話 帶の飾り | 第44話 小僧買い入れの証文 | 第79話 ゲジゲジを踏んだ日 |
第10話 金を借りる | 第45話 郊天祭 | 第80話 長老の托鉢 |
第11話 馬の世話 | 第46話 道中の聞き取り | 第81話 オンドル造り |
第12話 賭け囲碁 | 第47話 診察と藥の調合 | 第82話 疥癬治療 |
第13話 中秋節の誓い | 第48話 お裾分け | 第83話 無縁の者は度し難し |
第14話 馬の飾り | 第49話 人妻に言い寄る男 | 第84話 手紙の代筆 |
第15話 貂の皮を買う | 第50話 仕事の分担 | 第85話 書斎造り |
第16話 借金の催促 | 第51話 普陀山見物 | 第86話 ご主人の出世 |
第17話 坊主の間男 | 第52話 留守番 | 第87話 降ってわいた災難 |
第18話 お灸をすえる | 第53話 帽子を誂える | 第88話 西遊記は傑作 |
第19話 なぞなぞ遊び | 第54話 殺人鬼とその妻 | 第89話 ガラス珠と珊瑚購入 |
第20話 馬医 | 第55話 こんな寒い日は | 第90話 茶房にて |
第21話 床屋 | 第56話 やつも変わった | 第91話 銀器を作る |
第22話 若旦那の結婚 | 第57話 気晴らしの山遊 | 第92話 大明殿の四将軍 |
第23話 膝当てを作る | 第58話 野菜を植える | 第93話 食堂にて |
第24話 学校の一日 | 第59話 泥棒防止策 | 第94話 ゴルフの試合 |
第25話 故郷からの客 | 第60話 緞子を買う | 第95話 不正納税事件 |
第26話 初めての銭湯 | 第61話 賃貸契約書 | 第96話 出世した兄の見送り |
第27話 今年は不景気 | 第62話 雨漏り | 第97話 肖像画を描いてもらう |
第28話 弓矢で賭け | 第63話 この字どう書く? | 第98話 お葬式 |
第29話 お産と子育て | 第64話 田舎に行く | 第99話 ご飯の炊き方 |
第30話 友人宅訪問 | 第65話 客間の掃除 | 第100話 春牛を鞭打つ |
第31話 弓を作る | 第66話 役人の任期満了 | 第101話 北京の城門 |
第32話 借金の証文 | 第67話 いたずら | 第102話 魚釣りの誘い |
第33話 馬の購入 | 第68話 赤ん坊 | 第103話 窃盗の訴状 |
第34話 墓参り | 第69話 将棋 | 第104話 殴打の訴状 |
第35話 誕生祝い | 第70話 相撲 | 第105話 尋ね馬の告示 |
第106話 高麗の秀才を訪問 |