リレーエッセー 第105弾

わが水木しげる考

谷川 清美(学15EC)



私は、小学生のころから漫画少年でした。「少年」、「少年倶楽部」、「おもしろブック」、 「冒険王」という月刊誌を愛読しておりました。 このような少年誌の作家は、手塚治虫を中心とする、いわゆる「ときわ荘」グループでした。 その中には、特に好きな漫画家はいませんでした。 小学6年生の頃に、家のむかえに、貸本屋が開業しました。貸本は、1冊10円で、1日借れるのです。 メジャーな少年誌とは違い、粗い写実的な画風で、 犯罪やダークな日常を扱った漫画ばかりでした。これらの漫画は後に劇画と命名され、 多くの劇画作家が、「少年マガジン」、「少年サンデー」といった週刊マンガ誌にデビューし、 「ビッグコミック」、「漫画サンデー」のような大人誌の中心作家となります。 「ゴルゴ13」のさいとうたかお、「カムイ伝」の白土三平、「野球狂の詩」の水島新司。 その一人が水木しげるです。私の幼心を鷲掴みにし、今も離さない大作家です。 大阪で生まれ、鳥取で少年期を過ごし、神戸の兵庫区水木通りで紙芝居作家となりました。 水木しげるの「水木」はここに由来しますので、神戸に大変ゆかりのある漫画家です。 残念なことに平成27年11月に波乱の人生を閉じられましたが、 彼の苦難の半生は、NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」でご覧になられたかたも多いと存じます。


よく水木しげるは手塚治虫と対比されます。水木は漫画の天才、 手塚は神様と並び称されています。手塚は宝塚の生まれですから、 いずれも兵庫の郷土作家です。水木も手塚も小学生のときに画才は開花しておりました。 小学生の時に描いた水木の早熟な美人画や風景画、 手塚の精緻な昆虫画や植物画に接したときには驚きを禁じ得ませんでした。 水木は画家では食えないから、手塚は画家になるには才能がありすぎた、 という理由で漫画の世界に入って行きます。
手塚は丸い綺麗な線で科学の夢を描き、「鉄腕アトム」に明るい夢を託しました。 水木は縄文以前の土の底の日本を現出させて「ゲゲゲの鬼太郎」に妖怪を語らせました。
石ノ森章太郎、藤子不二雄、赤塚不二夫をはじめ当時の漫画少年は手塚を真似ました。
一方、水木を真似るものは誰もいませんでした。水木の線もテーマもあまりにも独特で、 「パクル」ことは出来なかったのです。手塚は嫉妬のあまり、水木に「あなたの線は汚いのです。」 と面罵し、「少年マガジン」で「ゲゲゲの鬼太郎」を見て、 衝撃を受け、階段から転げ落ち、しばらくノイローゼになったとさえ言われています。




貸本漫画は、1冊百数十ページ描いて、著作料は2万円程です。 昭和30年代中ごろの2万円ですから、食べてはゆけます。 しかし、出版社は零細ですから、支払いは滞り、踏み倒しにも合います。 赤貧洗うが如しのような生活を与儀されます。報酬は1枚当たり幾らで、 その中身によって値段の変わることはありません。そのような世界ですから、 背景などは描き流せばよいのです。しかし、水木は、一枚一枚に何千本の線を重ねて、 渾身の力で濃厚な画面を創り上げました。紙屑のように消費されてゆく貸本漫画であるにも拘わらず、 です。潜在的な画家の魂とかプイラドがそうさせたのかもしれませんし、自分の漫画は後世に残るから、 おろそかにできないと思っていたのかもわかりません。
手塚が早世したということもありますが、科学の未来に陰りが見え始めたころから、 手塚が信じた明るい未来の漫画は少なくなり、世の中の行き詰まりと併行して、妖怪漫画が、 可愛い系からおどろおどろ系まで、どんどんと出てきました。
水木は、鬼太郎、ねずみ男、目玉おやじ、ねこ娘、一反もめん、こなき爺、 砂かけばばあ、ぬり壁といった鬼太郎一家のキャラクターを創出し、 河童、雪女、あかなめ、天狗、木霊、ぬらりひょん等、江戸時代の絵師鳥山石燕の画業を翻案、 紹介し、お手伝いさんの「のんのんばあ」から聞いた、おとろし、べとべとさん、ぬるぬる坊主、 小豆はかり等に形を与え、地方の民話、伝承も掘り起して、 さまざまな妖怪に絵をつけて語ってくれました。いまや妖怪は立派な研究対象で、 妖怪学の権威、小松和彦氏は国際日本文化センターの所長です。


妖怪は目には見えません。深い闇の中に住んでおります。闇がなくなれば、消えて行きます。 森が無くなり、絶滅してゆく動物も同じです。金子みずずさんが詠んだように「みえないけれどもあるんだよ」




の存在ですが、私は、その存在を信じております。


水木しげるのもう一つのジャンルは戦争漫画です。
水木は昭和18年に徴用され、鳥取連隊に配属されます。ラッパ手を命じられましたが、 ラッパが上手く吹けないために、断りに行ったところ、上官から「北と南のどちらがよいか。」 と問われ、暖かいところがよいと、応えたばかりに、激戦地のラバウル(ニューブリテン島) に送られました。輸送船は殆ど沈められる戦況のなかで、運よく(?)ラバウルに到着しました。 そこでは、上官のいじめやビンタ、極限までの肉体労働、マラリアの恐怖、敵襲の脅威、 飢餓の苦しみ、地獄の軍隊生活が待っていたのです。彼の所属していた前線の小隊が敵襲を受け、 敗走中に連合軍の爆撃で左腕を失います。1年8か月の療養を経て、昭和21年に帰国します。 闇屋、魚の配達、輪タクの元締め等で生きのび、昭和25年、28歳の時に前述の水木通で、 「水木荘」というアパートを経営しながら、紙芝居画家となります。 紙芝居業が成り立たなくなり、現状打開のために上京し、 昭和33年頃から貸本向けの戦記漫画を描き始めます。水木の戦争漫画は零戦を操って、 敵機をバンバン落とすようなヒーローものではありません。
戦争と言う報われない営為をむなしく戦う物語です。身体の一部を失いながら、 決して戦争反対などとは訴えません。 「戦争は、食えないから、眠れないから嫌。」というだけです。「戦争が反対」などと、 あたりまえのことを声高に言うのは恥ずかしいという、良質な日本人の心は失っていないのです。 戦争の悲惨さと不条理をあくまでも淡々と描いた「総員玉砕せよ!」は、 著名な作家の何巻もの戦争文学に匹敵するでしょう。




私は、水木は画家が漫画家になったのだと思っています。 水木は漫画を借りて絵画を描きました。このことは、水木漫画に接したことのある人は直ぐに 理解できます。前に、一つの画面に「何千本の線を重ねた。」と表現しましたが、 ぎっしりと描きこまれた、山や木々や花々や雑草や葉の一枚一枚や海や川や波や雲や光や 石像や野仏に出くわすと、ページをめくるのを忘れて、時間も忘れて、眺めこんでしまいます。 それで何とも言えず得した感じになるのです。「なんでこんなに描き込むんや。」と呟きながら。

水木は世界中で妖怪を発掘しながら、幸せとはなにかを考えてきました。 沢山の妖怪が住んでいた田舎での気ままな幼少年時代、怠けものの自分と戦いながらが画家への 道を探る青年時代、ただただ悲惨な軍隊時代、食べるだけのための苦難の戦後時代、 40歳を過ぎての遅いメジャーデビューと以降の順調な漫画家時代。 そして金銭的にも仕事の上でも余裕がでてきた老年期になり、次のような幸福の極意に達しました。
第一条 成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。
第二条 しないではいられないことをし続けなさい。
第三条 他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追及すべし。
第四条 好きの力を信じる。
第五条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。
第六条 怠け者になりなさい。
第七条 目に見えない世界を信じる。
人生のベテランである皆様は、この全七カ条に納得いただけると思うのですが、 第六条だけは少し説明がいると思います。「怠け者になりなさい。」と言う水木本人は、 死ぬほど努力をしてきた人です。何度も自分の努力に裏切られながら 人生の晩年になって幸せをつかんだひとです。これは、金銭的な余裕を得て、 心身共に健康を維持し、何もしなくても生きて行けるまで、つまり、怠け者になれるまで 努力をしなさいという意味です。「若い時は怠けちゃだめ、 中年以降になって愉快に怠ける癖をつけない。」というのが、水木さんの言葉です。




私が敬愛してやまない水木さんは逝ってしまわれましたが、私は、水木さんの幸福論を実践して、 毎日ぼんやりと過ごしております。

平成28年1月

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