リレーエッセー 第118弾

<追悼>赤松光雄先生との思い出

近藤 馨(学24EA)


令和3年2月20日、奥様の靖子さまより訃報メールを頂いた。実は、ちょうど2ヶ月前の12月19日に、これが最後になるかもしれないとの思いで、コロナ感染拡大の最中ながら自家用車を飛ばし須磨のご自宅を訪問させて頂いていたのだった。「認知症が進み、何やら意味不明なことを呟くことが多くなっております。昔の教え子さんにでも会えば元気が出るかも」と奥様から是非にとのお招きだった。そこで僅かな時間ならばと、職場の農業高校で育てたシンピジウムのデリバリーを思い立ったのだ。

お会いした先生は確かに90代半ばのご老体ではあったが、認知症を患っているとはとても思えない頭脳明晰な記憶力に脱帽させられた。昼食をご一緒させて頂いたが、食が進まないことを心配されていた奥様も驚くほどの食欲だった。一口ながら美味しそうにビールを口にされた時の笑顔はご満悦そのものの表情だった。「暖かくなったら、何か楽しいことでもしよか」と眼を輝かせて仰ったのが印象的だった。おそらく先生の脳裏には、将棋・相撲・海釣りのいずれかが浮かんでいたのであろう。誰もが知る将棋名人であり相撲博士でもあったし、「阿波の釣り師」を豪語されるほどの釣りキチだったのだから。


振り返れば、先生と「教え子」としての関係はさほど濃くない。大学1回生時に週1回の英語講読の授業と、2回生時に英文学特別講義を受講しただけの、他の誰にでもあるありきたりの関係でしかなかった。それこそゼミ担当教員として卒論指導などでお世話になる間柄だったなら、ひょっとしたら人生が全く別物になっていたのかもしれない。後に触れるが、先生とはいわば「すれ違い(間違い)の喜劇」を演じたと言えなくもないのだ。

恥ずかしながら、先生との最初の思い出は1回生時の前期試験でのこと。授業で何を読んでいたのか、ましてや試験の内容などまるで記憶にないが、自分でしでかした失態だけはよく覚えている。何と大胆にも、答案用紙の余白(ひょっとしたら裏面)に個人的な感想を「英文」でしたためたのだ。大学の英語の試験だと言うが、高校の試験と変わらないほどのものなのか、と落胆の意を表明した(つもり)だった。おそらくその「英文」には誤りが多く読むに耐えないとのご判断であったのだろう、合格点に1点足りない「59点」で返却された。「答案用紙には余計なことを書き込むな」とのご叱責が、今でも鳴り響いている。

それに懲りず、2回生時にも先生の英文学特別講義を受講したのは、これから決めねばならない専門分野への道筋がほぼ決まり出していたからかも知れない。高校時代に英語の教科書で読んだ小説『ブラックボーイ』の作者リチャード・ライト、及び合衆国黒人の歴史、黒人文学というジャンルなどなどへの関心が高まっていく矢先のことだった。それに大学が「アメリカ黒人研究」発祥の地だったということと、その中心に同窓生の大先輩として先生の存在があったことを知ったからだろう。この時に提出した課題レポートが、後の卒論になっていくのだった。

当時70年代の英米学科(語学・文学系コース)には、英米の戯曲なら田島、アメリカ文学なら桂田、イギリス中世英語なら須藤、アメリカ事情なら貫名、語法・英文法なら前置詞の小西といった各教授陣が列席されていた。だが「黒人文学」を扱って頂ける先生が見当たらなかったので、先生の研究室を訪ね新規開設の直談判をしたものだ。その折、最初の「すれ違い」を体験させられたのだった。何と翌1年間は、交換教授として中国天津外国語大学への赴任が決定されているとのこと。

4回生にもなると、せっかくの大学生活を4年で終えてしまうのは勿体ないと考えるようになっていた。4回生まであまりにも順調に、というよりエスカレーターに乗っかっただけで進級してきてしまったような印象すら抱いたものだ。部活(=準硬式野球部)もお役目終了となり、じっくり自身を見つめ直すために1年くらい卒業延期もありかと、留年を想定しての4年目だったのだ。夏休みには、当てもなく九州一周のひとり旅と洒落て夜の神戸港を出港したものだ。今さらながら、どうして瀬戸内海ではなく、思いきって太平洋を渡り合衆国の地を目指さなかったのかと考えなくもない。これも「すれ違い」のなせる業だったのかも知れない。当時は、まだまだ海外は遠い存在だったのだ。

その後、合格するはずもなかった愛知県高等学校教員採用試験に通ってしまったことで、思惑の歯車が狂ってしまう。留年どころか卒業しなければならない羽目になったのだ。慌てて「すれ違い」の糸を手繰り寄せるかのごとく、先生との再接触を試みた。完成ほど遠い状態の卒論原稿を持って、先生の研究室に押し掛けたのだった。4回生の12月上旬頃のことだ。ゼミ担当の大先生(貫名ゼミ所属)からご指導を仰いでいたにもかかわらず、先生に無理難題を押し付けてしまったのは、若気の至りであったと今にして思う。10月から授業へは出ずに、もっぱら昼夜逆転の卒論漬けの3ヶ月間だった。年の瀬にもかかわらず、先生には行き詰まった教え子の相談役をお願いしてしまったというわけだ。

なんとか締め切り日に卒論を提出できたのは、嫌な顔ひとつされず付き合って下さった先生のお陰だ。卒業式を終えた直後、あの六甲グラウンドで先生を誘ってキャッチボールをしたことは懐かしい思い出となっている。確か、大阪の古豪浪商野球部に一時在籍したことがあると豪語されていたはずだが、力強い球が投げ返されてきた。これから母校の高校野球部で甲子園を目指します、とご挨拶して神戸を離れたのだった。

このキャッチボールのことを覚えていて下さったのか、その後10年ばかり経ったある日、先生から思いがけない電話を頂いた。たいした実績をあげているわけでもない高校野球のしがない監督を持ち上げて、「野球の専門家(?)として、頼みたいことがある」と。黒人野球リーグの超スーパー・スター「サチェル・ペイジ」を追いかけた書籍が出版されているので、その紹介文を書かないかとの依頼だった。寝耳に水のようなお話だったが、これが切っ掛けで先生との新たなお付き合いが始まった。佐山和夫氏による『史上最高の投手はだれか』( 潮出版社 1984 ) というルポルタージュだった。黒人研究の会会誌 No. 55 に「文献解題」として拙稿を掲載して頂いた。その後しばらく会費のみの会員ながら、研究会員の末席に名を連ねさせて頂くことにもなった。

1980年代になると、合衆国の黒人野球リーグのことがにわかに話題にされるようになっていた。ほんの10年前には、ハンク・アーロンの通算本塁打数がベーブ・ルースを超すことで、合衆国国民は大騒ぎをしていたものだ。ベーブ・ルース神話を汚されたくないと思う白人サイドから、アーロンへの嫌がらせや脅迫電話はもとより、自宅には爆弾が投げ込まれる事態が起きていた。そのアーロンを含めて、1947年に大リーグ入りを果たしたジャッキー・ロビンソンらが活躍した黒人リーグのことだ。その実態がようやく明らかにされ出し、そこで活躍していた選手たちのことが繙かれようとしていたのだ。何と日本人の佐山氏によるこの労作が、合衆国のニグロ・リーグ発掘の記念碑的な著作になったとも言えるのだ。その後、大リーグ入り第1号の黒人選手ロビンソンはもとより、サチェル・ペイジの活躍までもが高校の教科書に登場してくる。


2012年3月に高等学校教員を退職すると、楠ヶ丘会東海支部のまとめ役を任されることになった。しばらくは毎年6月第1土曜日に開催される同窓会総会が、年1回先生と再会できる楽しみの場となった。その度に米寿だ、九十を越えたと高笑いされながら、ビールを美味しそうに嗜まれる姿に励まされたものだった。「まだ高校で教えているのかね? 相変わらず野球部の監督をしているのかね」と質問されたものだ。こちらも「とうとう甲子園出場の夢は果たせませんでした。でも、教え子が指導者になってたびたび甲子園に出場しています」と自慢にもならない自慢話を返したものだ。

やがて先生には遠出が叶わなくなり、ご自宅に籠りがちの生活を余儀なくされてしまう。それでも折に触れ、近くの図書館や書店へ出かけると遅くまで帰宅されないほどに、先生の「本の虫(=奥様評)」ぶりは健在であったという。ならば元気づけて差し上げようと、ある黒人ジャーナリストによる『シャット・アウト』という書籍をご紹介した。合衆国大リーグの古豪ボストン・レッド・ソックスには、86年間にも及ぶ永きに渡ってワールド・シリーズ制覇に手が届かない歴史があった。人はそれをベーブ・ルース放出の祟りだ、呪い(=「バンビーノの呪い」)だと称したが、レッド・ソックスにはボストンという土地柄とは裏腹な実情があったという。その著書は、その事実を暴露するという内容になっていた。タイトル「シャット・アウト」が示す通り、チームの監督及び球団経営陣が白人優越主義すなわち人種差別主義者で牛耳られていたことで、ロビンソンの大リーグ入りを含めて、黒人選手獲得に積極的でなかったチームの内情が明らかにされていた。

こんな面白い書籍を購入してましたと一部を訳出し、須磨のご自宅を訪問したのが5〜6年ほど前になるだろうか。面白い、面白いと太鼓判を捺して頂いたことでその気になり、ついには全訳するに至ったのが3年前のこと。不完全な出来映えながら、最後まで仕上げたことを、先生にはことのほか喜んで頂いた。しかし「残念ながら、今は一冊の翻訳本が喜ばれる時代ではなくなってしまったから、話の内容を何か別の形で発表できる方策を考えた方がよい」とのご教示を頂いた。自らが還暦を超えた身ながらも、こうした師弟関係の絆が持てた悦びを改めて実感させて頂いたものだ。出来の悪い学生が、すでに提出期限の過ぎたレポートをようやく提出できたといったところか。今さらながらだが、先生のアドバイスを具体化する手立てが見つけられないままに、先生が永久の旅立ちに発たれてしまったのは痛恨の至りだ。

こんなことを書いていると、天国の先生からお叱りの手紙でも届くかもしれない。「諦めるのは、まだ早いじゃないか」と。ことあるたびに、先生からはこまめにお手紙を頂くことがあった。ほんの一言電話で済むことながら、あの書き慣れた万年筆で綴られた愛着のある筆跡が届いたものだ。あの極太のブルーの文字が懐かしい。

赤松光雄先生、永い間のお付き合い有り難うございました。安らかにお眠り下さい。


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