市職員雑感
永井 信之(学23C)
外大の卒業生として、また神戸市職員として、外大との関わり合いの中での雑感を寄稿します。
私は、1970年4月学園紛争の終わりの時期に、外大中国学科に入学しました。
女子の入学者が初めて50%を超えた年だと思います。学生時代は軟式庭球部に所属し、学生係長は顧問で、クラブのこと等学生課の職員の方々にはお世話になりました。
その当時外大テニスコートには、平日夕方、休日に市職員の方々がよくテニスをしに来ていました。
何とはなしに就職するなら市役所もいいなぁと思うようになっていました。
1974年3月に卒業し、4月に市役所に入庁しました。 入庁6年後、人事異動で外大学生課に配属されました。 この頃の外大は多くの職員が異動を希望する人気の職場でした。 今と違って入試、入学時前後以外はそんなに忙しくなく、また応対する外大学生はおとなしく、人気に違わず非常に良い?職場でした。 昼休みにはいろんなスポーツに興じ、また学生と一緒に、泊まり込みで山・海やスキーに行ったりしていました。 学園祭、語劇祭等の行事、体育部・文化部の主将交代行事等でも宿泊を伴う学生との交流がありました。 今から思えば、職員・学生とものんびりしていた和やかな時代で、学生からはたくさんのエネルギーをいただき感謝の念にたえません。
1986年に外大は、灘区の旧学舎から学園都市の新学舎に移転しましたが、卒業生ということで学生の移転、特にクラブ関係の移転に深く関わり、結局9年の長きに渡り学生課にお世話になりました。 このときのことで残念でならないのは、テニスコートのサーフェスを全てオムニにしなかったことです。 その当時軟式庭球のコートサーフェスは土でなければならないという固定観念があり、その固定観念を翻せませんでした。 今も毎冬テニスコートのコート整備をする後輩をみるにつけ、その当時の判断が悔やまれてなりません。
1989年4月に外大から異動し、これからは外大に関与することがないと思っていましたが、1999年に楠ヶ丘会神戸市役所の支部役員になり、2005年からは事務局長として、一方同年楠ヶ丘会常任理事として、再び外大のことに関わることになりました。 楠ヶ丘会本部、市役所支部とも課題として活動の活性化にあります。「隗より始めよ」のことわざにもありますように、まず市役所支部の活性化に努めたいと思っています。 市役所支部も毎年新人が入庁してきていますので、その人達を取り込んで支部員同士の親睦、ひいては活動の活性化につなげていきたいと思っております。 そういったことを通じて外大の将来的な発展に貢献出来ればと思うこの頃です。