リレーエッセー 第34弾

私の戦中戦後

米田 肇(Ⅱ3E)

私は昭和9年生まれで、丁度大東亜戦争が始まった昭和16年の4月、国民学校に第一期生として入学した。 兵庫県養父郡(現在の養父市)の小さな田舎の村である。 一年先輩までが尋常小学校で1年生の国語教科書は「サイタサイタ サクラガサイタ」で始まっていた。 私たちから尋常小学校が国民学校に変わり1年生の国語教科書も「アカイアカイ アサヒアサヒ」に変わった。 この年から学校教育も含め日本全体が太平洋戦争突入に向かって着々とその準備を整えていたのだろう。

日米開戦は昭和16年12月8日、ハワイ真珠湾の奇襲攻撃で始まった。 開戦からシンガポール陥落など1~2年ぐらいまでは目覚ましい戦果をあげて国民全体が戦勝気分に酔っていた。 しかし、日米の国力の差は如何ともし難く米国が体勢を整え真珠湾を忘れるなを合言葉に軍事力を発揮するようになると戦局はしだいに悪くなっていった。

4年生ぐらいになると国民生活は困窮を極めた。 食料、衣料は極度に不足し教科書さえまともなものがない時代になってきた。

教科書といえば、出版社から学校には未製本の「両面が刷りっぱなし」の紙が学校に届き、生徒はそれを家に持ち帰って自分で製本した。 全紙1枚が16ページ分になっており、正しい順序に従って8折りにすればB5判のものが16ページになり、その方法で順次繰り返していけば1冊分が出来あがる。 表紙はボール紙(当時は馬糞紙といっていた)をB5判の大きさに切ったものを2枚作り表紙と裏表紙として使った。 そして右端から1センチ5ミリぐらいのところに筋を入れ、小さな穴を2つ、8センチぐらい間を離してあけ、その穴に紐を通して結び父に筆で国語読本と書いてもらい教科書が一冊出来上がりである。

同級生の中には学校に弁当を持ってこない者もいた。 お粥を啜って飢えをしのいだ時代だから弁当箱をもって学校に行けなかったのだ。 私も時々芋を弁当箱に入れて持っていった。 「欲しがりません勝つまでは」の時代だから恥ずかしいことはなかった。

当時は白米のご飯をたべられるのは祭か葬式や法事などごく限られた特別の日だけであった。 日常は麦がたくさん入った麦ご飯を腹7分目ぐらい食べていたが、これは、未だ恵まれた方で多くの人は大根の葉っぱや芋の蔓などを小さく刻んでうすい粥にいれた雑炊をよく食べていた。

食べ盛りの子どもは何時もお腹をすかせ、ひもじい思いをしながら肘や脛につぎ当てしたぼろぼろの服に藁草履を履いて野良仕事を手伝ったり遊んだりしていた。 4年生ごろになると戦況は益々劣勢となり都会では米軍のB29爆撃機による大空襲が始まった。

私の田舎には神戸の大開国民学校の5~6年生が集団疎開でお寺や公会堂にきていた。 お寺の本堂で寝泊まりも勉強もしていた。 彼らもまた食糧不足で慢性的に空腹をかかえていた。 時々彼らを私の家に招いてさつま芋等の食べ物をあげていたことを思い出す。

そのころ学校では午前中2時間ぐらい勉強して午後は勤労奉仕をしていた。 当時学校の運動場の隅に炭焼き釜が2つ作られた。 高等科1~2年生は2班に別れ第1班は近くのクヌギ林に行き直径6センチ~7センチのクヌギを伐採し枝をはらい長さ1メートルぐらいに切る。 そうして私たち下級生はその炭材を山から炭窯のある学校まで運ぶ。 1日2往復するのがノルマである。 運ばれた炭材を使って第2班の上級生が炭を焼くのである。

運動場は3分の2が開墾され麦や芋が作られ、残りの3分の1は全校生の朝礼が出来るスペースしか残されていない時もあった。 勿論運動会など出来る筈も無かった。 体育の時間には講堂兼体育館でルーズベルト大統領とチャーチル首相の藁人形を叩く競技をさせられた。 2つの藁人形が体育館の端に置かれ反対側の端から2列に並び棍棒を持って順番に人形をたたく競技である。 叩き方が弱いと罰則が科せられ体育館を30周走らされた。 それをやらせた女性教師は女学校出の代用教員であった。 独身の若い男性教員は大勢召集令状で戦場に駆り出され、その穴埋めとして代用教員が採用されたのだ。

そうして昭和20年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をしたのである。 敗戦後はGHQの命令により学校教育も180度の大変革がなされ6、3、3、4制が施行され軍国主義教育から民主主義教育へと大きく変わった。

私たちの1年先輩は旧制中学に行ったが私たちから新制中学ができて義務教育になった。 昨日まで軍国主義的教育を大きな声を出して行ってきた先生が今日から戦後の新しい民主主義教育をやり始め先生自身も戸惑いをかんじバツの悪い思いをしたであろうと思う。 先生に対して不信感を抱いたこともある。

戦時中や終戦直後の食糧難の時代を知る私たちにとって現代の飽食時代はまるで夢のようだ。 レストランや家庭で出る残飯で飢餓に苦しむ何千万、何億という人びとの命が救われるのではという現状を見てこれでいいのかと複雑な思いを抱く今日この頃である。

被爆アオギリ2世の成長

2024年6月5日

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