リレーエッセー 第48弾

弁論大会に出た頃

赤松 光雄(学1EB)

米軍の空襲で一面の焼野原、神戸兵庫区の一角に、われらが母校、神戸外大の前身、神戸外専の仮校舎、大開小学校がひっそりと立っていた。 敗戦の翌年の6月に開校し、その年の冬だった。

学内で英語の弁論大会を開くことになった。 出場者の持ち時間は五分以内、戦時中は英語の学習はご法度、私たちの学力は低かったので、今回は名文の暗誦でも可ということだった。 それなら一つやって見るか、私は出場を申し込んだ。

会場に当てられた講堂には暖房などある筈はない。 窓ガラスも入らぬまま、新聞紙やボール紙を貼って風を防いでいる。 だがあの頃の外専生は今時の外大生と違って、厳しい戦争体験で鍛えられていたから、寒さなどそれほど感じてはいなかった。

折りしも復員姿で壇上に立っているのは、中国語学科の高原希国君。私より七才年上の復員航空兵、南方洋上で愛機が撃墜されたが、漂流中米軍に救助されて俘虜になった。 収容所では得意の英語を生かして通訳を務めた。九死に一生の体験をへて、故郷に帰国したら、自分のお墓が建っていたという。生きた英霊の好個の例である。 「あれっ、お前は幽霊?」 「バカ言え、おれの足を見ろ、ちゃんとここにある、幽霊じゃない」 聴いている学生の間からどっと笑いの渦が巻き起こり、皆手に汗して聴き惚れた。 英語科の出場者を尻目にして、彼は当然の如く優勝をかっさらって行った。

私はその隙を突いて、ささやかな暗誦で二位に忍び込んだ。 ご褒美には、パードン先生審査委員長より、進駐軍お下賜の数缶の缶詰を頂戴した。 あの食糧難の時代、凡そ見ることも不可能なビーフ缶など、まるで夢のようなご馳走だった。 両親にとっても旱天の慈雨、私は滅多にしない親孝行をした気になった。

敗戦国に再び春が巡り来た。 外専は開学一周年の記念祭を諏訪山小学校を借りて盛大に行い、その足で第二の仮校舎を闇市で賑わう三宮の東、小野柄小学校に移した。 前の校舎は中華同文学校との同居だったが、ここでも小学校と同居の宿借り学校だった。

この頃、創刊して日も浅い「英文毎日」の主催で弁論大会を開くという耳よりなニュースが報じられた。 「マッカーサー杯争奪第一回全国英語弁論大会」、まず各地区で予選大会を開き、全国の大学・高専の代表選手が競い合うことになる。 そこで母校では、その出場者を学内予選大会で選ぶことになった。 前回の学内大会で味を占めた私は余りためらわずに出場を申し込んだ。 今度は暗誦では駄目、英語でのスピーチはなかなか厄介だと知った。 そんなある日、わが家の近くの丘のふもとを散策中に、咲き乱れるつつじの花を見た。 その途端に、何か啓示を得たような感動を覚え、急いで帰宅し、この体験をスピーチのクライマックスに織り込み、「HOPE」という短い題を付けてまとめ上げた。 私たち、いつまでも敗戦の暗い絶望の淵に沈んだままではだめだ、明るい明日の希望を信じて、それに向かって共に力強く立ち上がろうではないか、と訴えかける内容だった。

学内大会で目標にしていた高原君を差し置いて、私が運良く代表に選ばれた。 仮校舎の屋上に出て、北に六甲の山脈を仰ぎ、南に米軍のイースト・キャンプを望みながら、練習に励んだ。 作文を教わっていた竹内清海先生に指導を乞うと、先生は私の拙い文字原稿を丁寧に訂正され、奇麗に英文タイプに打って頂いた。 見違えるようになった原稿を見て感激し、奮闘を自らに言い聞かせた。

やがて22校の参加の近畿地区大会、出場順のくじ運にも恵まれ、私は落ち着いて練習通りにやれ、審査員の好評も得て、望外の優勝に輝いた。 そして二位の阪大生と共に全国大会への出場権を得た。 翌日登校すると、クラス全員の学友が教室に揃っていて、一斉の拍手で私を迎えてくれた。

全国大会まで約ひと月、弁論術の本など読み浸っていて、ギリシャの雄弁家で知られるデモスシニーズの練習法に触れた文に出会った。 海の荒れる日、海岸に出て、発音を明晰にするため小石を口一杯に含み、大波に負けぬよう吼えろ、と教えていた。 幸い私の家も海岸に近い。 教え通り、小石を口に入れたら、何とも言えず気分が悪くなって、ワッと吐き出してしまった。 こんなことができる筈がないと思った。 もう一つの教え、荒波に向かって吼えろといっても、瀬戸の海は殆どいつも静かで、期待には答えてくれなかった。 むしろ、入賞のみを目標にして、突っ走っている卑小な私を自然の大海が嗤っているようで、私の努力に疑問が頭をもたげることもあった。

やがて6月、否応なく全国大会の日がやって来た。 前夜祭に全国の代表が参集し、大相撲の天皇杯さながらのマッカーサー・トロフィがテーブルの中央に据えられ、一同の羨望の眼差しを集めていた。

<全国大会の前夜祭で貰った記念メダル>

GENERAL MACARTHUR TROPHY,
ENGLISH ORATORICAL CONTEST.
DISTRICT WINNER
(裏に1947とある)

60年もたって真っ黒になっていたが、
孫が酢をつけて懸命にこすっていたら、
やがて銀色に光り出して英字が浮かんで来た。
「マッカーサー」が出て来たと叫んだ。


外専では大会当日は英語科は休講にして、会場の毎日会館の大ホールに応援に行くよう掲示が出たという。

大ホールは聴衆で埋め尽され、ライトは煌々と晴れの舞台を照らしていた。 初めての雰囲気に田舎育ちの私は、少々気遅れがしていたに違いない。 一際大きい声援を受けて、夢中で喋り出していた。 気が付くと、もう終わりに近かった。 斜め前方にさっと右手を上げ、彼方を指して、「見よ、雲の後ろには、常に太陽が輝いている」と大見得を切ったつもりで締めくくった。 ところが、審査委員長の最後の講評は冷ややかに言い放った。 「派手にあんな風に手を上げる必要はない。 ああいうのはヒットラーのやることだ」私は深く傷ついた。 近畿大会で二位だった阪大生が準優勝になった。 私は審査員のせいで負けたと、思い込もうとした。 ところが、後日、彼の原稿を読む機会があった。 「リンカーンと民主主義」と題する内容だったが、格調の高い文章で論旨は明快、躍動するリズム感に溢れていた。 私は完全に兜を脱ぎ、審査員のせいにしていた不明を深く恥じ入った。

会場の外に出ると、学友たちが待っていた。 その一人が、私の肩をどやしつけて「赤松、お前大分疲れたのと違うか? ちょっとこいつに栄養を付けてやって下さいよ」と、傍にいた私の母に言った。 嬉しい友情のひと言だった。 一瞬虚をつかれた母は、素顔に戻り、無言のまま笑顔で頷いた。

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